とても大切な話を聞きました。
それは、以前一度このブログに登場したことのある母方の実家のおじいちゃんから。
「命」を頂いているということについて、改めて考えさせられました。
母が育つ頃、田舎の開拓地は食べていくのに精一杯でみんなで協力し合って生活をしていたそうです。
その頃、母の実家は畜産と乳牛で生計を立ており、おじいちゃんは牛から採れる牛乳でヨーグルトを作ったりバターを作ったり、ニワトリから卵をとったり、馬に手伝ってもらって田畑をおこしたりしながら工夫をして生計を立てていました。
子供が沢山いるおじいちゃんは、その当時子供達にごはんを食べさせるためにしていたことがあります。
それは、それぞれの家で飼っている豚を一突きで殺すことです。
その当時、畜産で生計を立てていなくても、どの家にも食べるための豚が3~4匹いたそうです。
食べるために飼っていたとしても、殺すとなると話は別で誰もしたくない仕事。
その役をしてくれるということで、おじいちゃんは色々なところに頼まれて行っては、豚の心臓を一突きに刺し、頭や肩の部分をもらっては家族の食料の足しにしたといいます。
初めて殺した日、あまりにも吐き気がし、具合がわるくなり何ものどを通らなかったそうです。
苦しめたくないので一突きにしていたということでした。
けど、子供達と生きていくためにその仕事をしました。
おじいちゃんはそんな中「観音様」を買いました。
宗教への想いが特別強いわけではないおじいちゃんですが、
命を頂いた動物達を思って
「何があっても、この観音様に顔向けできない生き方はしないようにしよう」
そう心にしまって生きてきたそうです。
そんなおじいちゃんは今も「観音様」をとても大事にしています。
涙が出ました。
おじいちゃんは動物好きです。
その気持ちを思うと胸がつまります。
今は法律が取り締まっているので、そういうことは出来ないようになっているらしいのですが、本当は殺していない私達も、「命」を頂いて毎日を暮らしているということが事実です。
目の前で息絶えた動物を生きるために食べなければならないということ、つまり命を頂いている「感謝」と「畏れ」を抱いて生きていくことのほうが、食物連鎖のあるべき姿で尊いことに思えます。
つい100年前までは、「命」を頂いているという「感謝」と「畏れ」を抱いて生活することが当たり前だったのではないでしょうか。
まだまだ、地球上ではその様に暮らしている地域もあると思います。
そういう地域の方が、「生」と「死」に向き合い、大切に「命」を頂いているのではないでしょうか。
現代に住むわたし達に出来ることは、「パック入りのお肉」でも
「命」を頂いているという事実を忘れないように、「食べることの出来る量を、捨てずに」感謝して頂くことしかないと思いました。
私も、この話を大切に、忘れないようにしたいと思います。